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2007/02/05

受け継がれゆく命

ある小さな栗畑で見つけたもの…
 
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 左の切られた木は
 おそらく枯れてしまった栗の木
 
 右の小さな木は
 おそらく新しく植えられた苗木
 
 寄り添うように立つ
 命を終えた古い木と
 これからの若い木の姿に
 心引かれました
 
 
 
 
 
 枯れた木が残したものは、たとえそれが生命そのものではなくても
 それでもそこにはちゃんと新しい「命」が受け継がれているように思えました。
 私も何か残していけるかな ほんの微かな何かでも
 

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コメント

若い苗木の幹の太さを見て、例の「ゴミ溜め」のひょろひょろ桃の木を思い出しました。
去年は綺麗な花をいっぱい咲かせ、その後小さな果実をいっぱい実らせたのですが、まずいのか野鳥さえも見向きもしませんでした。
その野生の桃の木、秋の終わり頃、ばさばさに枝をはらわれたり、細い幹から折られたり散々な目にあっていました。
枯れ枝になって見分けがつかなくなったけど、同じ所にあったボケの木も同じ運命だったはず。
ボケは今いっぱい小さな赤い蕾をつけているので、生きていてほっとしましたが、桃の木の方はどうなんでしょう。今年もあのきれいな花を咲かせてくれるのかと・・・。
せめて、この栗の苗木ぐらいの太さに育ってくれたら、まだまだ生き延びられるのにと。今日はちょっとおセンチなあまもりになりました。

投稿: あまもり | 2007/02/05 11:17

枯れた栗の木も朽ちた幹や根っこがいろんな虫が生きるのに役立ち、その活動が若い木の養分へと連鎖していくのでしょうね。
私たち人間もそういう風に命を受け継いでいけるとうれしいことです。

投稿: 横浜のおーちゃん | 2007/02/05 13:30

  
この世に生を受けたものは、すべてが後世に連綿として族を残す。
伐られた木は、残された株から芽を出し、やがてまた大きな木となり、種の命を繋いでいく。摂理なんですかね。

温暖化を防ぐためにも、地球の砂漠化を防止するためにも、新しい緑の命を増やさなければなりません。

「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」
子孫のために何かを残したいものです。尊敬される祖先として…
汚名と借りは残さないようにしましょう。

投稿: 夢閑人 | 2007/02/05 15:01

◆あまもりさん、ありがとうございます ♪

心をかけて見守っていらしただけに、無造作な切られ方をしたのは
ショックですよね。愛情のかけらも感じられない切り方。
ましてや、折られたとまであっては。
去年アップしてくださった、可愛い花を思い出します。
秋の終わりごろに強剪定されたのでは、この春の花は無理かもしれませんね。
詳しいことは知らないのですが、モモは花後わりと早い時期に翌年の
花芽ができるようなのです。
けれど、ボケの木が同じようにされても健気に蕾をたくさんつけている
様子には救われる想いですね。

私も、植物達への関心が深まるのに比例して、人間の勝手な都合で無残に
切られたりする姿を見ると胸がグサグサ痛むようになってしまいました。
そう言いながら、庭の草達を抜き花の苗を枯らし、野菜をパクパク
食べているのですけれど(^^;)
これらのいただいた命を無駄にしないように生かしていかなきゃいけませんね。


◆横浜のおーちゃん、ありがとうございます ♪

そうですね、おーちゃんの仰るとおりだと思います。
枯れた栗の木は隣の苗木の親ではないけれど、そういう形で
いろんな生き物達の命へと繫がり担っていくのですね。
人間も、色々な形で次世代へ繋いでいけたらと、思います。
この新旧の木を見ながら、私が繋いでいけるものは
何があるのだろう、とふと考えさせられました。

おーちゃんのなさっている活動にも啓発されます(^^)


◆夢閑人さん、ありがとうございます ♪

連綿と受け継がれてゆく命というものには、生物学的なものに限らず
ものの考え方や心のありようなども、含まれるような気がします。
さらには、地球というかけがえのない環境もまた、命ですね。
人間は「歴史は繰り返す」なんてのんきに構えていないで、
歴史から学んで過ちを繰り返さないようにしなくちゃいけません。

…とだんだん話が大きくなってきてしまいましたが、
やっぱりそういう心構えを、一人一人が心のどこかに持っているのと
いないのとでは将来に差が出てきそうな気もしますね。
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」ですか。
名は無理ですが、思いのひとつでも次の世代の人に受け継げたらいいなと思います。
そのためには今の自分のままではダメですけれど。

投稿: ポージィ | 2007/02/05 18:25

長い命を終えた木の姿はそばで若木を慈しんで見、
また励ましているようにも見えます。
これを見て、私も命を終えたとき形は消えても、この老木のように、どこかで何か1つでも励まし支えられるようなあの世の存在になれたらなんて思いました。
でも無理。いえ、普通の人のようにすぐ忘れられていいのね。
植物界の逞しさにも頭が下がるこの頃です。

投稿: tona | 2007/02/05 20:02

◆tonaさん、ありがとうございます ♪

ほんとですね~ そっと寄り添い慈愛に満ちた眼差しで
見守っているように見えます。
命を終えた後にも、心の支えに励ましになれるような存在…。
いいですね。なれるものならそんな風になりたいです。
確かに、生きている人にとっては、ある意味忘れることも大切。
でも時おり思い出してもらえて、その姿が力になれるなら幸せですよね。
笑顔を思い出してもらえるようにしなくては、とちょっと反省です(^^;)

植物達にも教えられることがたくさんありますね。

投稿: ポージィ | 2007/02/05 21:04

世代交代ですね。
寿命をまっとうしたのか、途半ばで倒れたのかは別にしても、次世代に繋げる何かを残して逝ったのですよ。
持ち主のかたが、朽ちた栗の木を根元から伐らないということにも、経験からくる意味があるように思えます。
俺を支えにしろよって、そんな言葉が聞こえてきそうです。
早く引退して欲しい、どこかの国の誰かさんに、見習ってもらいたですね。

投稿: goro's | 2007/02/06 01:11

 木なんて、切り倒されない限り永遠に近い存在だと思っていたのですが、やっぱ世代は交代していくんですね。
 ほかの命に、何かを伝えるのが命に課せられた任務なのか、それとも「新しい命」そのものを、次代に伝えたことで古い命の目的は達成されたのか。こういう命題は考えれば考えるほど疑問がわいてきます。考えるとタイヘンです。

 んま、わかりやすく言うと「お、俺の屍を越えてゆけ……ぐふっ!!」「父ちゃん、とおちゃーん!!」って感じでしょうか。
 いや、あんまりわかりやすくないですね(笑)。

投稿: ろぷ | 2007/02/06 06:19

このブログで、ポージィさんの思考や感性に触れることができて、とても嬉しく思っています。
それは自分のごく懇意な友人と変わらないかもしれません。
そんなポージィさんの存在は、ずっと記憶に残るような気がしています。
そしてそれは、他の多くの方も同じかもしれませんね。
将来このブログを訪れる人にとっても。
そう考えると、ブログって素敵なシステムだと改めて感じました。

投稿: nanbu | 2007/02/06 10:08

◆悟郎さん、ありがとうございます ♪

世代交代、まさしくです。
きっと、どんな命も次世代に何かしら残して逝くのですよね。
自分は何を残していけるだろうと考えましたが、
受け取り手側としても、残されたものをちゃんと受け止めて
いかなくてはいけないなぁとも思いました。
そのためには考えや目を養っていかなくては。
漠としていて難しいですけれど、身近なところからでも。

枯れた木を掘り起こしたり根元から切っていないのには、きっと何か訳が
あるのでしょうね。そこにも先人から伝えられたものが生きているのでしょう。

エヘヘ 最後の一行に思わずニタリとしましたよ。
すごーく婉曲に忍ばせたつもりでしたが、感づかれましたね(^^ゞ


◆ろぷさん、ありがとうございます ♪

そうですね。木ってものはすごく寿命が長いように思えますが、意外と短いものも
あるようなんですよ。もちろん病気などの理由もあるでしょうけれど。
近くにちょこちょこある小さな栗畑では、結構頻繁に枯れています。
そして枯れると、傍らに次の苗が植えられ世代交代がなされていきます。

はい、命の任務や目的を、じっくり考え始めたら訳が分からなくなります(^^;)
悩み考え抜いたとしてもおいそれと答えは出ませんしね。
でも、自分は子供もいないし、死んだ後で土葬にでもしてもらわない限り
生物学的に命を次へと繋げていくことは不可能なので、
たまにちらと頭を掠めることがあります。

うぷぷ(^m^) ろぷさんが書いてくださった例え、わかりますよー
そうそう、そういうことになるんだと思いますぅ。

 
◆nanbuさん、ありがとうございます ♪

コメント拝見して、nanbuさんの優しさのぬくもりにほわ~んと
包まれたような気がしました(^^)
いまでは数限りなくと言ってもいいほど存在するブログとその書き手の中で、
こうしてお知り合いになれたというのは確率から考えるとすごいことなんですよね。
私にとっても、nanbuさんの考えや感性に触れられること、
新しい風や刺激をいただけることなど、全てとても嬉しいことです。
こういうことも、大きな意味では命が繫がっていくということに
なるのかもしれませんね。
そしてこれは訪れてくださっている他の皆さんにも言えること。
そう考えると胸に温もりが広がるのを感じます。
ありがとうございます(^^)

投稿: ポージィ | 2007/02/06 10:48

ポージィさんのブログは毎日楽しみにして拝見しています。このところ、中々コメント書けなくてゴメンなさい。新しい「命」、あらためてよく見ると、やはり一寸感動しますね。人間の場合も、親から子、子からまたその子と受け継がれて行きます。でも、植物を見て感じるのと、人間を見て感じるのでは、何か感じ方が違いますね。(自分で何言っているのか分からなくなりました)

投稿: 茂彦 | 2007/02/06 19:26

◆茂彦さん、ありがとうございます ♪

お忙しいのにすみません。コメントいただくのは、お時間にゆとりが
できるまでお待ちしていますから、ご無理なさらないでくださいね。

受け継がれゆく命、人間のそれと植物のそれとでは、どこか印象が違うと
お感じになりますか? 人間の場合は遺伝子的なものだけではなく、
ものの考え方や捉え方や感性 etc.… といった心や文化といったものも
受け継がれていくものとして数えられるからかもしれませんね。
茂彦さんのお感じになったこととずれていたらゴメンナサイ(^^)

投稿: ポージィ | 2007/02/06 21:39

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